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記録として残らないもの

このブログは改めて環境に配慮した紙とインクでお届けしております。

「今どこ?」「ここ!」「何してんの?」

自分がこうある理由を説明するのは難しい。
社会生活では他人と関わる。
他人は自分じゃないからさらに難しい。
何を考えているかまったくわからない。

こちらを読ませていただき、
思うところがあったので書いてみます。

カテゴリを「感じたこと」にすべきかな?
ま、いいや。 上にリンクしてあるページを読んでいただけただろうか?
まずはリンク先のページを読んでいただきたい。


僕は多くの点で宮台助教授に賛成である。


僕自身は、今僕が生活しているシステムにいると
こういう意見を持ってしまう。


何が幸せなのかを一概に言えないのが成熟社会

これは上司が変わってから状況が一変した。
今の上司は時々部下である僕らにこう言う。

「そんなやり方では人の上に立てない」
「役職が付くと手当てがつく、それは安くない」

僕はこの意見に賛成できない。
まず、「人の上に立つ」とか「命令する立場」に
はっきり言って興味や欲がない。
これは僕の幸せとは違う。
このことを面と向かって言うと
今の上司や多くの年上の方、さらに親までもが
向上心が足りないとか、やる気がないとか言い、
そういった説教を受けることになる。


「仕事での自己実現こそが幸せだ」と思い込む親が多過ぎます。

きっと今の上司、多くの年上の方、僕の親は
「多数派に属する人間」なんだと言える。
自分の考えが絶対で、それが最良と考えていて、
このやり方を伝えたいのではないかと思う。

いや、もしかしたら
「収入の多さ = 幸せの大きさ」
と思っているのかもしれない。
真実は腹を割って話し合わないとわからないだろう。
(話し合ってもわからんかもしれん)


仕事は糧と割切り、趣味や消費での自己実現を図る生き方がもっと評価されていい。

これは今の僕にとって最も難しいものだ。
仕事は仕事と割り切りたいのだが、
早く帰ったりすると
(と言っても当然普通に8時間は労働してますよ)
「こいつは時間があるな、もっと詰め込もう」
という方針なのだ。
これは脅しでもなんでもなく、
僕の周りでは普通に行なわれている。
中にはしなくてもいい仕事もあるはずなのに。。。

必要量をこなしているだけじゃダメなのか???
僕には読みたい本も、勉強したいことも、
スポーツをする時間も、楽器をさわる時間も、
その他いろいろしたいことがあるのに・・・。

もしそのやり方を徹底するのであれば
たぶん僕には今の会社を辞めるしか道は無いはず。


創意工夫の必要な仕事には競争を通じた選別と動機づけが不可欠で、学力が問われるのはそうした仕事に就く人材です。

正直、この辺りからは言葉が難しくて、
正しく読めた自信がありませんorz。

僕はこの「競争」という意見とは少し違って、
各分野ごとに識者が集いロードマップを作成し、
各分野間でもつながりを深く持って、
人類の目標として挑戦をするべきかと。

僕は「競争」をお金の絡む話として読んでいるが、
お金が絡むと無駄なことに労力をかけることになるので
それは避けるべきだと考えている。
例えば権利主張などの裁判がそれに当たる。
(僕は一応技術者なのでこういう切り口になるが)
自分の権利を頑なに主張するような研究者は
本当に好きでその研究をしているのだろうか?
その分野の研究を伸ばそうと考えているのだろうか?
あるいは一企業がある技術を保有していて
その技術を他に公開をせず使用を許可していなかった場合、
それは人類の進歩に足かせをはめるという、
とんでもない罪に相当するのではないだろうか?


なので「知識」だけでなく
「傾倒できる」「使命感」ということが必要で
その分野を真の意味で支えることができるような
人材を育成できる社会が必要になるのではないかと。


万人に学力が必要との発想は時代遅れで、稀少なポストをめぐる学力競争から降りるのも、大切です。仕事だけが人生じゃないから腐らなくてもいい。敵わない相手と張り合うのはやめ、リスペクト(尊敬)すべきです。

また僕の話になるが、
今現在、張り合いもせず尊敬もせずの状況である。
しかし、自分が正しいと考えた事を発言した時、
「それは今現在これでしか製品化できないから」とか
「間違っていないから悪くないだろう」と言う上司に
企業という装置の一部品である僕が張り合うことは
僕にとって無駄な労力であるし、
上司自身も事業を成り立たせる必要があるだろうし。
そんな上司(会社?システム?)を尊敬もできるわけもない。

会社のために自分を変えて自分を失うなら
この世の記録や記憶にはならなくても
自分を守って自分の生きる道に自分の情熱や時間を注ぎたいと僕は考える。


生粋の日本人には生活保守主義が目立ち、人類の将来といった等身大を超えた領域に関心を持つ若者があまりにも少ない。教育の故障がそこにあります。
 その意味で総合学習の機能が大切ですが、それを担える教師が不足する以上、文科省による一時的な店仕舞いも仕方ないでしょう。他の先進国に比べ計算能力も識字率も生活態度も優れた労働者の多い日本。昨今の学力低下論は的外れです。

そもそも「学力」という言葉、あらためて調べると、
学校などにおける系統的な教育を通じて獲得した能力。教科内容を正しく理解し、それを知識として身につけ、その知識を応用して新しいものを創造する力。

と出た。

最近はニュースを見ることがなかった恥ずかしい人間なので
僕は巷で騒がれているのは

 「教科内容の質」等が低下
 「知識として身につける能力」が低下
 「得た知識を応用する力」が低下

なのかよくわからない。

ただ、上に挙げたポイントから思いつくことがある。

・「常識はずれ」の排除
 教科書で習ったことは正しく、
 不変のものだと思い込んでしまうと
 まれに少数派の斬新な意見が潰されてしまう。
 僕は今、人類の進化の歴史について
 書かれた本を読んでいるが、
 その中でも消された説が数十年後に認められたと
 書いてあったのを読んだ。

 これは知識を得る際のプロセスが問題ではなく、
 「考え方」「伝え方」「受け取り方」に
 改善の必要があるのではないかと考える。
 その内容が問題じゃなく、学び方だ。

 テストの答案用紙にクラスで2~3人は
 「教科書が正しければ答えは○○」と
 書くような教え方をしていけば
 物事に対する見方や
 人の意見に対する聞き取り方の質を
 向上させることができる気がする。


・「発明の母」が減った
 何かをしようとしたとき、
 よほどのことをしようとしない限り
 その「何か」のための道具がすでに世の中にある。
 つまり「何か」をするためには
 「知恵、知識、発想」などではなく
 「道具購入費用」が必要な世の中という、
 今の日本はそんな感じなんじゃないかと思う。



宮台助教授のこの意見に対しては
人それぞれ立場によって反応が大きく違うと思う。
僕自身が数日か、数ヵ月後かに読んで
別の受け取り方、違った考え方をするかもしれない。
ただ、今の僕の意見を書きたくて書いた。


今までこのブログでいろいろ書いてきたけど、
(特にこのカテゴリで)
やっぱりどこか自分の生活に疑問な部分があるんだと思う。

それとやっぱりスターゲイトだ。
そのストーリーを素直に受け入れて見てきたことも
自分に問いかけ続けてこられた要因なんじゃないかと思う。


もしかしたら僕は今、思春期なのかな

高校生の頃は特に荒れなかったし。

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無題

宮台真司さんの記事、読みました。

うーん・・・いろいろ書いては消してます(^_^;)
このページを開いてから、すでに1時間経過しました(笑)

そしてまた30分・・・・・。

機会があれば出直してきます<(_ _)>

無題

宮台さんの本、学生の頃何冊か読んだよ。
全く別のテーマだけどね。

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